島への恩返しは小値賀に残ること。

Profile
宮崎 良保(みやざき よしやす)さん
小値賀町 唐見崎出身。高校卒業後、福岡県の建設会社に就職するも、島への恩返しの思いを胸に帰郷。小値賀町農業共済組合(当時)に入組し、畜産や養蚕を主体とした 農業の近代化に尽力。その後、周囲の推薦を受け、小値賀町議会議員に転身。 現在は小値賀町議会議員として5期目を務めている。島の基幹産業である農業・漁業の活性化を自身の使命と捉え、活動している。
すべては、島への恩返しのために

宮崎さんの原点は、小学4年生の時に遡る。心臓の難病である心房中隔欠損症を患い、大きな手術を受けることになった。
「あの時は本当に小値賀の人たちに助けられた。」
命に関わる手術を受けに、島を出る日、たくさんの島の人が支えてくれた。タクシーの運転手は笛吹への道のりの途中で料金メーターを下げて港まで送り届け、フェリーの事務長は身体のこともあるからと1等室を用意してくれた。島全体に見守られ、一命をとりとめたこの経験が、彼の生き方を決定づけた。
「いつかは恩返しをせんといけんと、ちゅうことで。最大の恩返しは、小値賀に残ることだろうと」。
島に残る道として選んだのは、農業共済組合の仕事だった。そこで直面したのは、時代の変化に取り残されつつあった島の農業の中心であった畜産業の姿。
彼は、農作業用の使役牛が中心だった小値賀の農業を、肉用牛を生産する産業へと変えるべく改革に乗り出す。
将来を見据え、大規模な「多頭飼育」を提唱。そのために先進地へ視察に赴き、牛の角を切る「除角」や「削蹄」及び「放し飼い」の技術導入を説いた。しかし、当初、島のベテラン農家たちからは「牛は家族じゃ、そんなの牛じゃなか」と猛反発を受けたという。
さらに、牛の大型化と肉質向上のため、当時の獣医師や和牛部会の仲間たちと10年がかりで品種改良にも取り組んだ。鹿児島の「気高牛」と兵庫の「但馬牛」を交配させ、現在の小値賀牛の礎を築き上げた。「そん時は必死やったよ」。数々の困難を乗り越え、彼は島の畜産業を根底から変革していった。
議員として向き合う、島の現実と課題

現在、宮崎さんは議員として5期目を迎える。農業の現場から議会へと場所は変わったが、島の産業を想う気持ちは変わらない。しかし、そこには新たな葛藤もある。
「農業する時も、どんなに苦労しても、できるところが見えるけん楽しい。議員の場合は見えない」。
福祉、教育、そして産業。多岐にわたる分野で、すぐには成果が見えにくい課題と向き合う日々。彼が最も危機感を抱いているのは、人口減少と、それに伴う産業の担い手不足だ。
特に、移住希望者がいても住む家がないという「住居問題」は深刻だという。空き家自体はあるものの、「将来子どもが帰ってくるかもしれない」といった持ち主の事情や、大規模な修繕が必要なため、すぐに貸し出せる物件が極端に少ない。町が主体となって住宅を整備する構想もあるが、財源の壁が立ちはだかる。
また、後継者育成の拠点として設立された「担い手公社」も、本来の目的を十分に果たせていない現状がある。「存続するための収入源ばっかり追い求めて、研修棟は全然動いていないのよ。もったいない」。
課題が山積する中でも、彼の信念は揺るがない。「きつければきついほど、将来はいいんだ」。その言葉には、困難の先にある島の未来を見据える、改革者としての覚悟が滲む。
次の世代へ、豊かさの土台を繋ぐ

宮崎さんは、島の未来を語る上で「産業活性化」がすべての基本だと強調する。
「やっぱ小値賀の魅力は食いもんです。農業にでも漁業にでも。そこがないと観光もないし、いくら景色が良くても食いもんなかったら一緒でしょ」。
その想いを形にするため、彼は具体的な構想を描いている。一つは、現在の家畜市場の施設を利用した「肥育事業」の立ち上げ。若手の畜産農家たちが意欲を見せており、実現すれば島の畜産業は新たなステージに進む。
さらに、高齢化で耕作が難しくなった農地を「農業法人」として引き受け、後継者を育てながら維持していく仕組みや、個人経営が基本となっている漁業を「法人化」し、新規参入の障壁を下げるアイデアも語る。
彼の視線は、常に次の世代へと向けられている。中学生の時に出会ったクラーク博士の言葉が、その根底にある。
「少年よ大志を抱け。それは決して金のためではない。地位や名誉のためでもない。全ての人間のための大志である」。
この言葉を座右の銘とし、彼は今日も島の未来のために声を上げ、汗を流す。その原動力は、今も昔も変わらない。
「命、助けられたんだよ。どんなにしても、これはね」。
▼小値賀町議会